平成15年10月12日
吉祥寺村立雑学大学講義
『ボヘミアにただ一人の日本人として半世紀を生きた明治の女性フク・ホロヴァー(旧姓竹本福)の生涯を追って』
講演者 吉澤?子
1932年9月25日生まれ。静岡市出身。
お茶の水女子大史学科卒。
1955年より1991年まで中学・高校教師
都立弟五商には1964年より1991年まで勤務。
その後、調査と文章修行に専念。
著書
光文社知恵の森文庫『地球あちこち』
   これは25人の仲間と共同執筆。
フク・ホロヴァーの生涯を追って』
 ーボヘミアに生きた明治の女ー
二児の母、10月には71歳 

 フク・ホロヴァーは紀州藩士竹本久敬(ひさよし)の2男5女の第六子としてうまれました。18歳で当時大阪ガスの技師であったチェコ人のカレル・ヤン・ホラと結婚。その後横浜山手の外人墓地前に夫とともに居をうつしました。
 夫ホラは同郷のヤン・レツルと建築会社を起こし、聖心女学院、築地精養県などの建築に携わりました。
建築会社の共同経営者のレツルは広島原爆ドームとなった建物の設計・施工者として有名です。
 フク夫婦には長女ワカと長男カレルがおりました。第一次世界大戦中、ボヘミアに帰国した一家は田舎町に住んでいました。
 その後、夫は愛人を作り、外国に行ってしまいましたが、フクは子供たちを周囲のチェコ人と融和して育てました。娘は一九四八年舌癌で死にました。第二次大戦中フランス外人部隊に入ってパラシュート隊長としてレジスタンに活躍した息子は、その戦績により、レジョンヌ賞オフィシエ、英国のミリタリクロス、米国のシルバースターなどを受けました。ドイツの敗戦後、極東で戦うという彼にフクは、「日本はわが母なる国です。けして日本と闘わないで。あなたは祖国チェコのためにしなければならないことがあります。換えっていらっしゃい」と手紙をだしました。
 母の勧めにに従って帰国した息子カレルはチェコ軍少佐になりましたが、1948年の共産党政権の成立後、亡命を余儀なくされます。ひそかに母に別れに訪れた息子に母はその心情をさっし、「膝をくっして生きるより、立ったまま死んだ方がよいのだよ」と永訣を覚悟していったのです。
 名もないフクの生涯に光があてられたことはありません。貴族に「売られた花嫁」として嫁したクーデンホーフー光子は、そのスター性のために有名です。
 しかしチェコでは、ドイツ系貴族のクーデンホーフー光子も無名のフクもしられてはいません。私はフクの方が偉大であると思っています。

 無名のフクの調査には10年以上の歳月がかかりました。素人の私が草思社から商業出版するのにもまた数年。結局15年の歳月が流れました。

フクのこと、素人が商業出版する困難さなど、お話させていただきたいと思います。