以下は朝日新聞掲載2003年01月05日に掲載された書評
http://book.asahi.com/review/index.html?info=d&no=2772
落語『死神』の世界 西本晃二著
古今東西、おかしくて怖いやつ
死神をだまして大金を手に入れた男が、無数の蝋燭(ろうそく)が燃える地下の大広間につれてゆかれる。なかに、いまにも燃えつきようとしている蝋燭が一本。あれは? おまえの命の火だよ。あわてて別の蝋燭をつぎたそうとするが、その瞬間――。おかしくて、おっかない名作落語だ。
この『死神』の作者は三遊亭円朝なのだそうな。そして、その大もとには『クリスピーノと代母』というイタリア・オペラがあった、という説があるらしい。ひょんなことからこの説を知った落語好きのイタリア文学者(すなわち著者)が、その真偽をたしかめにかかる。しらべるのはたのしい。たちまち十五年の歳月がすぎて、ざっくばらんな知的閑談に綿密な考証が織りこまれた愉快な本ができあがった。
種本と思われるオペラの作者はリッチ兄弟で、一八五〇年、ヴェネツィアの劇場で初演されている。読んでみると、なるほど『死神』にそっくり。とすると円朝は、一九世紀末の日本で、どのようにしてこのオペラのことを知ったのだろうか。
その謎ときにもなかなかの説得力があるが、でも本書の眼目はむしろそれとは別のところにあるようだ。しらべるにつれて、この『クリスピーノと代母』が、オペラ以前に、じつはヨーロッパ全域に古くからつたわる死神伝承のひとつであることがわかってくる。グリム童話もその一例。
他方、明治期の日本にもたらされた同じ伝承が、こんどは落語という異文化の話芸のうちで、さまざまな変形をこうむりながらゆっくり増殖してゆく。著者は、二代目金馬、三代目円遊、五代目今輔、六代目円生、十代目小三治などの速記録や録音テープをさがしだし、それぞれのヴァージョンを克明に比較してみせてくれる。うーむ、そこまで徹底的にやりますか。「お茶の水の死神会社」が登場する三代目金馬版などというものまであったらしい。
どんな小さな穴からでもはいりこんで、しぶとく生きのびる。死神くそくらえ。そんな口承遺伝子の繁茂能力への賛嘆のおもいが、心地よくつたわってくる。
評者・津野海太郎(編集者・和光大教授)
(青蛙房<せいあぼう>・350ページ・3200円)
にしもと・こうじ 34年生まれ。政策研究大学院大学副学長。専門はルネサンス研究。著書に『現代のイタリア語』など。